関西医大の思い出 (1369)
2026年 06月 02日
人生なんてあっという間に終わってしまうのだと思う。
有名な人物も無名の人物も、時が来ればこの世に終わりを告げる・・・・なんて、人生の終末的書き出しをするのは、そんな年になってしまったからか・・・^^;
私は、大学入学にちょっと足踏みしていたので、同期より僅かに年上だが、昭和59年の春に、今では考えられない11名という大人数で関西医大眼科に入局した。この中には、後に初の自学出身教授となる秀才髙橋もいた。湖崎もね。別に試験があった訳でも、シーリングがあった訳でもなく、来るもの拒まずって雰囲気で、玉石混交(?)だが、当時は10名以上の入局者数も珍しくなかった。これは恐ろしい事で、毎年10名だと10年で100人も医局員が増える計算で、毎年数名なのとは大違いなのです。
時代が違うと言ってしまえば身も蓋もないのだけど、医学部を卒業したら、どこかの大学病院の医局に所属するのを、当然と考えていた。そこで、医学知識・技術もさることながら、医師としての基本姿勢のようなものを学ぶことになる。効率重視の今の若者(息子を含む)には信じられないだろうが。そして基本無給である。無給だけど、朝から夜遅くまで大学病院にいるのです。そこに長時間いることで、諸先輩・同期の医師たちが、どのような状況で、どのように考えて、どのように振る舞うのか・・を学んでいくのです。古い言葉だけど丁稚奉公だと考えていた。医学部に入り、国会試験を通って、医師免許をもっていたとしても、とても、医師といえる状態ではないのです。医学知識を中途半端にもった若造に過ぎないのです。
我々は、朝早くから夜遅くまで、とにかく大学病院にいた。急患があったとき、患者さんの状態が変化した時は、絶対書物では学べない貴重な機会となります。5時で時間が来たので帰りますでは、まったく勉強にならない。先輩たちも何かを教えてくれるのは、彼らの日常業務が終わった後だったりするのです。医局の一番奥の机に座っておられたO熊先生は、いつも山のように仕事かかえ、奈良まで帰るのに遅くまで医局におられました。少しでも早く帰る我々を見つけると、『もう帰るんですか。いいですね・・・』と必ず、生暖かい言葉をかけていただいた^^;
働き方改革という名の、働きたい人までも働かせない改革が世にはびこり、労働者不足を招き、外国人労働者を受け入れるという、日本全体が最悪の展開を見せているが、これが大学病院にも波及しているらしい。今の若い医者の将来が若干心配になる。メディアは、当直した後、外来・手術の激務に追われる医師を取り上げ、働き方改革の必要性を宣伝しているが、いつものメディアのやり口で、極端な例を取り上げたり、時には無いことをでっち上げ、それを叩くことで、左側に偏った政策の正当性を浸透させている(そして浸透してしまった)・・気がする。
当時、毎朝病院の眼科外来に行って、外回りと呼ばれる仕事(問診・検査指示・検査・・・)やシュライバー(教授診のカルテ書き)を昼過ぎまでやり、その後病棟に行って受け持ち患者の診察をしていた。手術日は、手術助手に入るが、終わったら外来業務に戻る。もう少し外来業務について詳しく思い出してみる。
1,マイクで患者さんを呼んで問診。(当時は◯◯さん・・その後◯◯様)
※多分若造医師は失礼な言葉で対応し、不十分な問診をしていたのだと思う)
2,検査の指示出し(視力・眼圧・散瞳など・・)
※何でもかんでも散瞳していた気がする。偶に散瞳指示出さないと、中から、何で散瞳してへんねん・・なんて怒られるので)
3,隣の部屋のベッドで、眼圧測定(ノンコンじゃなくシェッツなのです)。ペンライトで前房の深さ、虹彩の膨隆度をみて散瞳へ
※これでよく緑内障発作の誘発が多発しなかったものだ。神業かも・・・。だいたい散瞳して大丈夫かどうかなんて、若造医師にわかる筈がない^^;
4,フルオレセイン蛍光眼底造影(FAG)・眼底写真・前眼部写真などの検査
※いったいどれほどの数のFAGをしたのだろうか。眼底カメラ耐久テスト的だったかも。キャノンのカメラはよく頑張ったと思う。途中患者さんが気分悪くなり、しばしば嘔吐されるが、何とか頑張ってもらい、バチバチ撮り続けるのです。アナフィラキシーショックの経験がなかった事を神に感謝しています。
ここまで、昭和59年頃の話です。ここで、当時の主任教授(宇山昌延)と関西医大眼科学教室の歴史について。宇山先生は、昭和7年生まれで当時52歳。当然超怖いです。
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昭和 3年 6月 大阪女子高等医学専門学校
昭和 7年 付属病院開院(41床)
昭和 7年 4月 1日 初代:井街謙教授 就任(昭和9年8月25日倉敷中央病院眼科部長へ)
昭和 9年 付属病院開院(130床)
昭和 9年 8月30日 第2代:瀬戸文雄教授(昭和41年1月19日までの約30年間)
昭和19年 6月 1日 越智雅子助教授(昭和20年4月28日まで)
昭和24年 大阪女子医科大学
昭和29年 関西医科大学病院 300床
昭和30年 第7回近畿眼科学会(後の中部眼科学会)を主催
昭和31年10月 1日 今野信一助教授(昭和34年1月31日)
昭和31年 3月 宇山先生 京都大学医学部医学科卒業
昭和32年 3月 宇山先生 北野病院にて、医学実地修練終了
昭和32年 5月 宇山先生 京都大学医学部 眼科学教室入局
昭和32年 6月 宇山先生 京都大学医学部 助手
昭和32年 7月 宇山先生 医師国家試験合格、医師免許 (私が生まれたのはこの頃です)
昭和34年 2月 1日 三根亨助教授(昭和45年12月31日、大阪日赤病院眼科部長へ)
昭和34年 関西医科大学病院 500床
昭和38年 関西医科大学病院 680床
昭和40年 6月 宇山先生 京都大学医学博士
昭和41年 4月 1日 塚原勇教授(昭和50年4月30日まで、京大教授へ)
昭和43年 中部眼科学会 特別 講演:中心性網膜炎の病理と臨床
昭和45年 眼科28床
昭和46年 1月 1日 福地悟助教授(昭和51年2月29日まで)
昭和47年 眼科同窓会結成
第38回中部眼科学会を主催
昭和50年 8月 宇山先生 京都大学医学部 助教授
昭和51年 2月 宇山先生 関西医科大学眼科 教授
外来患者総数 30.155人(1日平均96人)
昭和52年 5月 関西医科大学病院 850床、眼科45床(6E)
昭和53年 1月 1日 三木弘彦先生が助教授に(^^♪
昭和55年 5月 宇山先生 日本眼科学会:宿題報告【脈絡膜循環障害の病態】
昭和58年 4月~昭和62年 3月 宇山先生 関西医科大学付属病院院長併任
昭和61年~平成 2年 宇山先生 日本眼科学会専門医制度委員会試験委員長
外来患者総数 62.367人(1日平均199人)
昭和62年 眼科57床(6E,N)
昭和62年10月 宇山先生 日本臨床眼科学会 特別講演【網膜色素上皮の臨床】
平成 1年 第28回日本網膜剥離学会を主催
平成 2年 第15回日本小児眼科学会を主催
平成 3年 5月 宇山先生 日本眼科学会:特別講演【脈絡膜新生血管、基礎と臨床】
平成 3年~5年 宇山先生 日本眼科学会雑誌編集委員長
平成 4年 第58回日本中部眼科学会を主催
平成 4年 5月23日 宇山先生 マイケルソン賞受賞
第3回国際眼内循環、血管新生国際シンポジウム(パリ)
【脈絡膜新生血管と網膜色素上皮の研究】
平成 5年 眼科65床(6E,5F)
平成 6年 第5回日本ICG蛍光造影研究会を主催
平成 7年 西村哲哉先生が助教授に
外来患者総数 74.941人(1日平均276人)
平成 9年 第101回日本眼科学会総会を主催
第5回国際眼内循環、血管新生シンポジウム(事務局)
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初代:井街謙教授(昭和7年4月から昭和9年8月までその後、倉敷中央病院眼科部長へ)
第2代:瀬戸文雄教授(昭和9年8月から昭和41年1月までの約30年間)
第3代:塚原勇教授(昭和41年4月から昭和50年4月、その後京大教授へ)
第4代:宇山昌延教授(昭和51年2月から平成11年3月)
第5代:松村美代教授(平成11年8月から平成20年3月)
第6代:髙橋寛二教授(平成20年7月から令和6年3月)
第7代:今井尚徳教授(令和6年5月から)
この宇山先生と関西医大(眼科)の歴史は、私が医局に在籍した時代(宇山時代)のメモから転記したものです。教室が順調に発展しているのが如実にわかります。守口の弱小私立女子医専だったのが(失礼)、暗黒の時代を経て(当時何度も聞いた^^;)、塚原・宇山の時代に立派な大学病院として成長したようです。関西医大眼科同窓会は、昭和47年ですから54年ほど前、中部眼科学会を主催した時に作られました。眼科学教室を金銭面でもバックアップするシステムとして作られた気がします。この眼科同窓会は、50年以上経過し、今更何故か同門会という名前に変更されてしまいました。個人的には許しがたい暴挙のように感じましたが・・。
私が入局した昭和59年は、宇山先生が教授就任9年目、日眼の宿題報告が終わり、病院長も兼任されていた時期にあたります。油が乗り切った52歳^^; 一日あたりの外来人数平均が、就任当初100人弱だったのが、200人ぐらいに増加し、殺人的な忙しさの外来を楽しんでおられました。当時は予約診療システムなんかなくて、外来人数は増え続け、多い時は、300人超えることもあった気がします。9時に外来を始められ、ぶっ通しで夕方になることも。外来・手術・病棟回診・教育・学会発表・海外出張・病院長・労組との交渉まで・・疲れを知らないスーパーマンだったなあ・・
少なくとも私は、この小さなスーパーマンが運営する眼科学教室の中での日々を楽しんでいました。ただ教授が全幅の信頼を置いているのは、限られた数人だけで、それはある意味悲しくもあり嬉しくもあるという微妙な状況だったのです。その限られた数名は、全幅の信頼を置かれているのですから、当然期待に答えなくてはならない・・・プレッシャー下に置かれます。我々はそのプレッシャーの外にいたので、自由にさせてもらっていました。限られた数名とは、O熊先生、N村先生、そして髙橋です。Y岸先生は特別枠・・
O熊先生は、何でも知っていて、何でもできる先生って感じだった。教授も外来で光凝固が必要な時は、いつも『O熊くんいる?』言われてました。決して竹内くんいる?とは言われません^^; その後研究室で、電子顕微鏡写真のコメントを書いた時も、ちょっと怪しいコメントだと見抜くと『O熊くんに見てもらった?』と言われるのです。つまり本当に信頼されているのはいつも数名だけなのです。お前の目は節穴なので、信頼のおける人のチェックが必要だと言われているのです。緑内障の診断とか隅角所見ぐらいは信頼されていた可能性はありますが、低い可能性です。この『O熊くんいる+』は、時代が変わると、『N村くんいる?』や『髙橋くんいる?』に変化していきます。
この頃から40年以上の時が流れ、宇山先生は鬼籍に入られました。手術の天才N村先生は、奇跡的な頑張りで現役続行中ですが、髙橋は、ついこの間まで主任教授を努めていたものの、体調不良もあり、退職となってしまいました。当時守口市にあった病院は、枚方が本院、守口が分院となり、分院には、当時一緒に働かせてもらった医師が数名おられ、特にN村・O辻先生には、大変お世話になっていますが、本院のドクターは誰も知りません。関西医大も遠い存在になってしまった。尊敬する同期の星が主任教授になったので、強引に息子を入局させたのですが、あっという間に疎遠になってしまった。時の流れには逆らえないなあ・・・
ただ、開業して25年以上経過したが、私には、日々の疑問を一緒に考えてくれる仲間がいます。リアルには年に1-2回の食事会ぐらいしか会えないけど、毎日のように投げた疑問に答えてくれる仲間がいます。特にK先生とのやり取りは、多分1000回以上かも。彼女のおかげで、日々勉強するモチベーションを維持できているのかもしれません。心から感謝しております。もうちょっと頑張ろうっと。






